大学キャンパスでの対面授業は、リモート授業である程度は置き換え可能かもしれない――若干乱暴に言えば、これが春学期を終えての個人的な感想です。
私がそう総括するのは、前回まで述べてきたように、リモート授業には質問のしやすさやアクセスのしやすさといった、対面リアル授業にはない「リモートならでは」の良さがあることに気づかされたからです。 もちろん、「リモート化(オンライン化)に際して解決を目指すべき課題」はまだまだ山積しています(第5回参照)。ハード面では、学生の情報通信環境や学習スペースの改善をしていかなければ、リモート授業のサステナブル(持続的)な運営は難しいでしょう。ソフト面では、コミュニケーションや人間関係をいかに構築してゆくか、工夫が必要です。 また、実技系・実習系の授業については、リモートで行うのは難しいと思います。が、これらの授業についても、VR(バーチャルリアリティー)技術を使うなどして、何とかリモート化しようという努力が続けられているようです。
…リモート授業については、授業の「質」の問題を含め、またあらためて掘り下げることにしましょう。今回は、「対面授業かリモート授業か」の議論から離れ、もっと広い視野から大学を見つめ直してみたいと思います。
振り返れば、私自身も含め大学教員・職員は、春先からのリモート授業対応で忙殺され、「対面授業かリモート授業か」という狭い問題にばかり気をとられていました。しかし、学生に対して大学が提供する機能は、「授業」だけではありません。
大学には、「授業以外の大事なこと」があると思うのです。
大学が学生に提供する機能は、2つに整理できると私は考えます。
・大学という場を通じて学生の自己形成を促すさまざまな機能。
・卒業証書=学歴を与える機能。
この2つです。「授業による知識や知恵の学生への付与」は、あくまでも①の機能の一部に過ぎません。では、「学生の自己形成を促すさまざまな機能」とは何でしょうか。
学生は、授業時間以外にも、キャンパスでさまざまな時間を過ごします。
膨大な専門書群に圧倒されながら、大学図書館で夜遅くまで調べものをする。コンピュータルームで提出日直前にレポートを書く。あるいは、そこにこもってプログラムを作成することもあるでしょう。ゼミナールの前後の時間には、先輩や後輩と立ち話で情報交換をすることもできます。
校舎の廊下で友人に偶然会えば、その場で雑談や馬鹿話に花が咲きます。学生食堂の脂っこい昼飯も、同窓生との共通体験として卒業後には懐かしく感じられるものです。部活やサークル活動を楽しみ、そこで生涯の友や人脈を得る学生も数多くいます。 一部は意識的に、一部は無意識のうちに学生が味わうこうした「経験パッケージ」は、空間的にも時間的にもさらに幅広いものを含む概念として捉えることも可能です。
大学周辺には、定食屋や居酒屋、雀荘、喫茶店、古本屋などが軒を連ねています。早稲田の三品(さんぴん)食堂やら三田のラーメン二郎やらの「ソウルフード」あり、居酒屋での人生を巡る哲学論争あり、酔っぱらってのヤラカシもあり、恋愛を巡るイザコザもあり。こういった青春ドラマは、大学キャンパスをとび超え、周縁部としての学生街に「空間的な拡がり」をもって展開されます。 また、「時間的な拡がり」としては、「若き血」、「紺碧の空」といったカレッジソングを学友と肩を組んで放吟する等の、母校の伝統を感じる経験があげられます。 以上のような学生のリアルな経験のなかには、取るに足らない、一見無駄に見える経験もあるかもしれません。単なる「モラトリアム」だと位置づけられてしまうような経験も含まれていることでしょう。
しかし私は、このような人間臭い経験のゴッタ煮、すなわち挫折も若気の至りも無駄もコミコミでの「リアルな経験パッケージ」こそが、若者が骨太で力強い知性を涵養し、うるおいのある総合的な人格を陶冶するための源だと考えています。
そして、豊潤な「経験パッケージ」が空間的・時間的な拡がりをもって展開される中心点が、実在としての大学キャンパス=「機能提供の場としての大学」なのだと思います。
余談ですが、早稲田の三品食堂(牛めし・カレー・カツのミックス盛りが有名)は、東京のローカルニュースではしばしば取り上げられていて、店の親父さんが「コロナで学生がいないので、大学の教職員しか客がおらず、苦しいです」とコメントする姿が報じられています。一方の三田の雄、ラーメン二郎はどうしているのでしょうか? 三田近辺の企業に勤めている友人にヒアリングしたところ、「相変わらず行列ができているよ」とのこと。ジロリアンの辞書に「コロナ」という文字は無いのかもしれません。ジロリアン恐るべし。
閑話休題。私の言葉でいう「リアルな経験パッケージ」、一般的には「(広義の)大学カルチャー」と呼ばれるものは、その相当部分が無意識下の経験の積み重ねであり、漠然としたものであるため、今春のキャンパス封鎖においてスポットライトが当たることはありませんでした。もっぱら注目を集めたのは、「対面授業からリモート授業への切り替え」でした。
しかし、新型コロナウィルスへの対応として大学がキャンパス封鎖・入構禁止に踏み切ったことによる学生への影響としては、「リアルな経験パッケージ」が大幅に毀損されたことこそが、将来にわたってボディーブローのように効いてくるような気がしてなりません。 そして、ウィズコロナ時代の「大学の未来像」を考えるにあたっては、この「経験パッケージ」をどのように捉えるのかが、ポイントのひとつになってくると思うのです。
とはいえ、私の「リアルな経験パッケージ」論については、古臭い、アナクロ、昭和の書生論、日本的…と感じる方もいるでしょう。たしかに、「リアルな経験パッケージ」もまた、日本特有のガラパゴス的状況なのかもしれません。ここはひとつ、欧米の大学の今を探ってみる価値がありそうです。
というわけで、次回は、欧米の大学ではコロナ禍によって何が起こっているのか、アメリカとイギリスの大学人に伺ってみようと思います。
(構成/鍋田吉郎)
*大学と一口に言っても、実験や実習が欠かせない工学系・医薬系や、実技が不可欠の体育系・芸術系、また人文科学系でもフィールドワークが必須の分野など、事情は様々です。本稿は、講義とゼミナールを主軸に置く人文科学系の教員から視たものとご理解ください(筆者より)。
*ここに記す内容は渡邊隆彦准教授個人の見解であり、渡邊准教授の所属する組織としての見解を示すものではないことをご承知おきください(ヒューモニー編集部)。
連載第7回「欧米の大学で今何が起こっているのか?」(8月21日掲載予定)